日用美品

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「すぐそばの工芸・考」トーク

井出幸亮(編集者)
猿山修(デザイナー、「ギュメレイアウトスタジオ」主宰)
森岡督行(「森岡書店」代表)
皆川明(「minä perhonen」デザイナー)

皆川:
第2部の登壇者をご紹介します。まず『サブシークエンス』という雑誌の、これは1号目ですね、東京ではもう幻になってしまって……さっき受付で見つけて、あっと思いましたが、この本の編集人の井出さんです。

おとなりが、銀座のとても雰囲気のあるビルで「森岡書店」を営み、1冊ずつ本を紹介していらっしゃる森岡さんです。

そして、つい先ごろ、3月まで麻布十番でギャラリーをされていて、デザイナーとしても素晴らしいデザインをされている猿山さんです。これから新しい場所を得て、何かやられるということで、そのことについても後ほど触れたいと思います。

そして私は「minä perhonen」のデザイナーをしております皆川と申します。よろしくお願いします。

会場:(拍手)

皆川:
井出さんと森岡さんが伝え手として、猿山さんと僕は作り手として、それぞれの立場からお話ししていければと思うんですが、今日はみんなで打ち合わせしていないので、この即興具合がきっと新鮮な答えを導き出すという僕らの法則に従っていきたいと思います。

森岡さんは4年間「森岡書店」で1冊ずつ本を紹介するというスタイルでやっていますが、なぜそうしようとしたのか、お話しください。

森岡:
「1冊の本を売る書店」というテーマで、1種類の本をだいたい1週間で区切って売りながら、本から派生する展覧会を同時にするという形式でやっています。なので、自分は工芸だけじゃなく、アート、写真、料理、もちろん小説も、さまざまな分野の書籍を扱います。

1回目に登壇された山本さんや小林さん、竹俣さんのようなギャラリーとはちがいますが、書籍というフィルターを通して、写真、建築、絵画、デザインなど、それに関連する、時代ごとの良いものに触れることができていると思っています。

茅場町で店をやっていた頃も含め、生活工芸の書籍を扱うこともあるんですが、現状、日本でさまざまな文化があるなかでも、生活工芸という分野は素晴らしいと思っています。自分のものの考え方として、弱点を克服して強くするより、得意な分野というか、良いものを伸ばしていった方がいいと考えていまして。生活工芸には近しい思いを持っています。

皆川:
4年で週1回ということは……200冊ぐらい。すごいですね。

森岡:
このスタイルでやってみたら、1冊の本を売るというコンセプトに共感してくださる方が非常に多くて。自分がお声がけする場合と、声をかけていただく場合があるんですが、選んでいるというよりは選ばれている感覚が強くなっています。

皆川:
1冊ですから、本を出された方の思考が汲み取れるんですよね。ものとしてだけではなく、本に込めた思いも体感できるのは素晴らしいこと。展示の間は、作家の方が常駐されていることが多いですよね。作家とのコミュニケーションも、とても良い体験だと思います。

森岡:
ここ20年ぐらい、生活工芸が勃興するあたりから、体験する価値を重んじるというか。「『もの』から『こと』へ」というワードがあって、その延長線上に自分の仕事があると思っているんです。「こと」に、夢や希望、愛とか、そういうものが感じられると、さらに現代性があると感じています。

皆川:
愛があるとより現代性がある。とっても深いですね。

森岡:
そういうのを求められていることを、販売をとおして感じることはあります。

皆川:
ありがとうございます。では、伝え手つながりで、次は井出さんにお願いしてよろしいですか。この『サブシークエンス』という本ですが、中身は本当に濃いんです。出版業界は厳しいといわれていますが、「この濃さがあったらどうだろう」と思うほど濃いです。多様性があって深い。それが伝わってきて、腑に落ちるし、目が開かされる本でした。井出さんはずっと大きな出版社で仕事をされていながら、どういう思いでここに行きついたのでしょうか。

井出:
この雑誌は、そもそも「ビズビム」というアパレルのブランドが資本を出していて、僕はその編集長をやっています。中身に、そのブランドのことはほとんど入っていません。自身のブランドのプロダクトについてではなく、彼らが大事にしている価値観のようなものを伝えたい。ブランドにこだわらないで作ってほしいと言われて、非常に自由に、自分がやりたいように作れる状況がありました。

今はどんな本でも雑誌でも、本当に厳しいと言われています。僕はフリーランスで編集やライターの仕事をやっているんですが、どこの出版社に行っても、売れるもの、数字が見込めるものを作ってほしいと言われます。それから、高いものは売れないので、安くしてほしい。総合すると、効率よく確実に売上を見込めるものを作ってほしいと言われるんです。

そうやってマーケティング的に作った本が売れればいいんですが、実際はそうではない。売れる本となると、みんなが知っていることをやろうとか、人気のある著者の本を出そうとか、すでに実績があることを追究するわけです。でも、そういう本にはみんな飽きているので、いい結果にならない。出すほどに売れなくなって、苦しくなって。そういう状況をずっと見てきました。

僕がどういう雑誌を作ろうかと思ったときに、世の中で売れているとか、評価されているということではなく、自分が本当に見たいもの、読みたいものって何だろうと考えることにしました。それは、生活工芸の考え方と近しいと思うんです。編集者は、キュレーターとか、お店の店主みたいなものだと思うし。

こういう生活工芸のイベントに関わらせていただいて、さっき森岡さんが共感してくれるお客さんが多いとおっしゃったんですけど、この六九クラフトストリートでも、作り手から使い手まで、みんなが何かを共有している気分というか、雰囲気みたいなものを、いつも感じています。

皆川:
ありがとうございます。では、猿山さん。ギャラリーを25年間やってきて、それをいったん閉じて次に進む話もお聞きしたいし、デザイナーとしての時間とギャラリーとしての時間は、ものとの関わり方がちがってくるのかどうか、そんなこともお聞きしたいです。

猿山:
僕はデザインをはじめて30年、ギャラリーをはじめて25年が経つんですけど、「こういう作り手がいて、こういうリスクがあるけど、こういうものを我々の会社は作りたいと思っている。デザインできますか?」というような依頼があるんです。はじめた当初は、そんな依頼はないですよね。こっちで調べて「こういうものを作りたい。一緒にやらないか」と交渉する。ほとんどがダメです。一番の原因は、相手に良さが伝わっていないから。

たとえばプロダクトの仕事であれば、「こういう素晴らしいものが過去にあった。ヨーロッパで、アメリカで、アジアやほかの国々で、こういうものが日常的に使われていて、素晴らしいじゃないか。どうして日本でこういうもの作りをやらないのか。こういうものを使わないのか」。プレゼンテーションをするんですけど、口で言ってもわからない。写真を見せてもピンとこない。

だったら自由に手に取って見られる場所を作りたいと思ったんです。「こういうものがある」ということを知らせるための場所を作って、自分のやりたい方向のデザインの仕事に興味を持ってもらう。それがギャラリーをはじめた理由です。

皆川:
それを終えるのは、ギャラリーを通さなくても伝わりやすくなったから。

猿山:
そうです。25年のほとんどを一緒にもの作りをしてきた会社がいくつかあるんですが、その人たちが僕に興味を持ってくれた当初は、彼らと僕の興味の重なる部分が1割程度だったのが、25年間かけてどんどん大きくなってきて。そうなると、向こうから言ってくることもあれば、こっちが十分な材料を用意しなくても伝わるようになってきました。それとともに、販売店や展覧会をやってくれる場所が共感してくれるようになったんです。

そうすると、自分の役割は、やっぱりデザイナーですので。プロデュースするのは苦手ですし、ましてや交流は本当に苦手なので、そこはできるだけ人に任せて、自分が本当にやるべきことをやろうというのが、今年の3月でギャラリーを終えた理由です。

皆川:
メーカーの方の理解は、その背景にいらっしゃる使い手の理解が積み重なってこそ。きっと全体感があるんでしょうね。

猿山:
そうですね。一番密につき合っている「東屋」という会社があって、手工業による日用品というコンセプトでやっているメーカーです。出会った頃は、輸入品を卸し売りする業務が大半で、自社で制作しているものは、ほとんどなかったんですが、今は99%が自社製品です。そういうことをやっていきたいんだ、と言われて。20年以上一緒にやっていますけれど。

皆川:
ありがとうございます。では、司会 兼 登壇者ということで、僕も一応お話します。

僕も来年でブランド設立から25年になりますけれど、そういう意味では猿山さんと近い時間が流れていますが、だんだん理解されてきたという猿山さんのお話とは逆に、ファッションにおけるもの作りでは、僕らはだんだん理解がなくなっていく25年だったというか。もの作りに対しての全体感が失われてきた、それをなんとかしたい、服を作ることにきちんと意味を持たせたいと思いながらやってきました。

安藤さんにも「ファッションって、生活工芸なのかなぁ?」と言われましたが、みなさんがファッションを短期的なもの作りだとイメージするようになってしまっているのを、「そうじゃないんだけどな」ということを何とか自分たちのもの作りで表現したいと思いながら続けています。

陶芸の方が自分ひとりで完成品まで作るのとはちがって、僕らは分業しています。糸を作る人、染める人、織る人、そして縫う人、僕らのようにグラフィックを描く人、カッティングする人。そういう分業の中でやっていると、最終的なデザインの責任を持つ僕らは、いろいろ作ってくださる方たちを、その工程の人たちと捉えてしまうことがあるんです。

でも、よくよく考えると、糸を作る人にとっては糸を作ることは工程ではなくて目的であって、染める人にとっては染めることが目的であって。僕らが工程あるいはプロセスと呼んでいることは、全部それを担ってくださる方の目的なんだということを改めて感じながらやっていくと、そこには分業のとても大きな意味があると思っています。

分業に携わる人たちに、ものからの幸福感をどう成立させるかということは、とても大事です。もちろん、使い手の満足は大事ですが、分業を担っている人たちの幸福感もイコールでなければいけない。そういうことを頭に置きながら作るのは、今、もの作りに対峙するうえで、とても大事なことだと思っています。

幸福感とは、さっき井出さんがおっしゃった気分とも同じだと思います。物質的な価値よりも、うれしいと感じたり、大切だと感じたり、美しいと感じたり、その感情こそが、ものの価値だと思います。だとすると、その気分をどう作るかということが、もの作りの目的になってくるんじゃないでしょうか。

作り手が暮らしながら思うことをものに込めて、それが使い手の暮らしに入って、そのものが放つ記憶が使い手の暮らしの中に満ちて。そういう社会からまた作り手はものを作っていく。そういう循環が明確なのが生活工芸だと僕は思います。伝え手も作り手も使い手も、それぞれの領分はちがうけれど、記憶を共有する点においては同じなんだろうと思います。

森岡さんのやっていらっしゃることは、書籍という形では今までにはなかった。本そのものは世の中にずっとあったわけですけど、そこに込められた思いも共有することが明確なコンセプトになっているのは、とてもおもしろいと思います。

森岡:
ありがとうございます。

皆川:
茅場町では方法論のちがう書店をされていた。そこから今のやり方に移行するのは、どんな思いがあったんでしょう。

森岡:
それに対する直接な答えにならないかもしれないんですけど。『サブシークエンス』は自分が販売させてもらっているんですが、『工芸青花』のギャラリー「一水寮」で見て、これは素晴らしいと思ったんです。なぜかというと、タブロイド版って言ったら失礼ですけど、ハードカバーではないし、きっとこれは読み込むとボロボロになるだろうと思ったんですよ。

折りが入るかもしれないし、端っこの方が毛羽立っていくかもしれないし。場合によってはコーヒーのシミがつくかもしれない。それがすごく心地いいなと思って。そういうのがソファの隙間にズボッと入っていたりして。それをめくって「あ、こんなこと書いてあるんだ」とか、そういう状況が思い浮かんできたんです。

同じようなことを、猿山さんのお店でも思いました。今回の展示で、猿山さんがデザインした白いお皿があって、その後ろに使い込まれて傷のいっぱい入ったお皿もあった。その使い込まれた方を手に取って「このお皿、格好いいな」と思う。新しいお皿も、これはきっとこうなるだろうとイメージが広がる。

それから私、「minä perhonen」のデニムも愛用させてもらっているんですけども……

皆川:
今日は……

森岡:
あ、今日はちがうんですけど。

会場:(笑)

森岡:
たとえば「マーメイド」っていうテキスタイルがデニムの内側に貼られている。テキスタイルに名前がついているのが、また近しい距離になるっていうか、ものに名前をつけると、ちがうものになる気がするんですよね。それから三谷さんの『すぐそばの工芸』に「家族のアルバムのようになって、個人にとって大切なものになっていく」というようなことが書いてあったと思うんですけど、これが私すごく好きで。これが生活工芸の特徴だし、「minä perhonen」の服や、『サブシークエンス』や、猿山さんのプロダクトの特徴でもあると考えています。

皆川:
で、森岡さんが「森岡書店」をやる理由は……

森岡:
そうです。すみません。井出さんが言ったように、本は斜陽産業で、本屋も常にきつい立場にいますが、銀座の前に茅場町で書店をやっていまして、新刊出版記念イベントをやると、その1冊に対してお客さんが来てくださった。

皆川:
そういう経験があったわけですね。

森岡:
はい。著者の方もお招きして、時には編集者の方も、で、手渡しをする。そこで言葉が交わされるとか、サインを入れるとか、本を介したコミュニケーションが生まれることが、売り手としても気持ちがいいし、出版社の方も、読者の方も、著者本人も喜んでくださる。ひとつのものを介して、その周りにいる人がみんな幸せだな、豊かだなと感じられる状況があったので、そこに特化してやろうと思いました。

皆川:
さっき井出さんが本を作る時に、売れるとか、わかりやすいとか、ある程度予定が立つような本作りが増えてきたとおっしゃっていました。それは鶏と卵の話のようなもので、だから厳しくなったともいえるし、作り手の熱量も伝え手の熱量も足りなくなったから、必然的に伝わらなくなった。そういうことなんでしょうか。

森岡:
足りないわけではないと思うんですよ。そうではなくて、本が多すぎる気がしています。

皆川:
なるほど。

森岡:
日本の出版事情が特殊で、本を作り続けなくては息絶えてしまうという仕組みがあるんです。

皆川:
なぜ生きていけないんですか。

森岡:
本を作ったら取次に卸す。取次に卸したら、その時点で売上が立つ。しかし本は売れていないから出版社に戻ってくる。そうすると、ここでマイナスが生じる。そういうことですよね。

井出:
そうですね。ちょっとややこしいんですけれど。

一般的な本は、書店では買い取らないんです。委託ですので、本屋さんは基本的に売れなければ本を返す、返本するんです。返本すると、取次を通して出版社に本が戻ってきます。出版社は本を納入した時にはお金がもらえるんですけど、本が戻ってきたら、その分のお金を返さなくちゃいけないわけです。返すお金があればいいけれど、ない場合がある。じゃあ、どうするかっていうと、新しい本を作ってまた入れるんです。そうするとお金を返さなくていいわけです。

自転車操業というか、本が返ってくる分を、また作って入れるんですけど、返ってくる分があまりにも多いと困る。たとえば1タイトルを5000冊も作っても売れないので、5タイトルを1000部ずつ作って取り次ぐ。卸せば額面は同じですから。ただ、5タイトル作らなくちゃいけないから、ものすごい乱造が必要になるわけですね。

皆川:
それ、話を聞いていると、どうしたって上手くいかなそうな……

井出:
そうです。

森岡:
そういう仕組みで回っているのが出版業界なんですが、その中にも、この作者の著書は出そうという本や、作者がこれだけは言いたいっていう本があるんです。そういう熱量をもった本が、少ないながら確実にあるんです。

井出:
それが埋もれてしまうことが問題なんだと思います。

皆川:
ファッション業界も年間で何億着も廃棄しているというニュースを聞きます。とにかく洋服を売り場に並べている。このままでは立ちいかなくなるのは誰もがわかっているけど、まだ変わっていない。似たような無駄なことが起こっていますね。森岡さんはそれを変えようと……

森岡:
変える必要はあると思うんですが、それで雇用が生まれているとか、ある範囲の経済が成り立っているという側面もあって、なかなかひと筋縄ではいかない問題だとは感じています。

皆川:
そこを話すと今日の目的とずれるので、そこはまた別の機会にしましょうか。

生活工芸における「もの」の価値についてですが、僕は、物質的な価値だけではなく、それを使う人の思いと、それがどれくらい存在し得るか、この3つのベクトルが作り上げる立体が、ものの価値の総量だと思っています。

たとえば手紙のような紙としての物質的な価値は小さいけど、その喜びはものすごく大きくて、いつまでも大切にとってある。たとえば、高価なものでも、一過性のものだとしたら、時とともに価値がなくなってしまう。

これらを立体にしてみると、薄いけどどこまでも広がる面とか、細い線とか、極端な形が見えてくる。生活工芸の「もの」からは、素材本来のニュートラルな状態に作り手の思いが入って、使い手の喜びが重なって、生涯つき合っていけるようなものであって。そこからは、とってもきれいな立体が見えるんです。その健全な形が生活工芸らしいと思うんです。

生活工芸が民芸とどうちがうのかというと、そんなにちがわない。大方一緒で、双子のようなものかもしれない。生活工芸について毎年しゃべっていて、毎回ちがう考えが出てくるのは、発酵状態というか、熟成している状態だと思うんですが。今、思う生活工芸について、改めてお聞きしてもいいですか。井出さんから。

井出:
この雑誌を作っていて感じたんですけど、その「もの」が欲しいのではなく、「もの」を使ったり、そばに置いたり、「もの」とコミットすることによって……先ほど僕は気分と言いましたけど、楽しいとか、うれしいとか、おもしろいとか、美しいとか、いろんな感情があると思うんですけど、そういう気分が感じられる。そういう気分になりたいんだなと思うんです。

それがいわゆる生活工芸といわれるものではなくても、そんな気分になることはたくさんあると思うんですが、生活工芸というのは、おそらく作り手がそういうことをすごく意識して作っているんだろうなと思います。

くり返しになるんですが、その気分を売る方も使う方も共有している。これを使うことが自分の生活をより良くしてくれるだろうという気持ちがあって、ただ単にその「もの」がほしいとか、そういうことじゃないんだろうなと思います。

さっき森岡さんの、この雑誌を部屋に置いて、ボロボロにして読む感じが想像できたという話を聞いて、僕はすごい感動しました。僕は本当にそう思って作ったんです。これを大事に本棚にしまっておいてほしいとは思っていない。気分がのった時にパラパラッとめくって「あぁ、楽しいな」と思って、また放っておいて、たまに見て。そういう「もの」とのコミュニケーションができたらいいなと思っています。

どんどん効率化している世の中から、そういうコミュニケーションが消えているなと感じているので、生活工芸のメッセージはより大事になってきていると思います。

森岡:
安藤さんが自著の『どっちつかずのものつくり』で皆川さんと「生活工芸は概念だ」とお話しされていたんですけど、自分もそう思っています。概念ってなんだろう。自分なりに思うのは、生活工芸は日常の生活を、時間と空間を豊かにしてくれるものだということ。そして『「生活工芸」の時代』という本が菅野さんの編集のもと4年ぐらい前に刊行されましたが、そのなかで菅野さんが生活工芸には狭義と広義があると書いていました。自分も狭義ではなく、広義の生活工芸に共感するようになりました。

猿山:
皆川さんがおっしゃっていた、分業制で作られたものは、それぞれ目的を果たしたものの積み重ねであって、そこに使い手も売り手も含まれて、そういうなかで生まれるものの方が、僕にとっては生活工芸という言葉がしっくりくるんです。なので、生活工芸の作り手を個人作家にあてはめると、自分の中に混乱があるんです。

ただ、たとえば音楽ではアカペラで歌って人を感動させる人もいますし、手拍子ひとつで踊れる人もいますし、いろんなタイプの仕上がりがあると思っています。僕も個人の作り手が作るものに興味があって、自分で売ることもあります。

個々の小さな目的を果たして、完成が積み重なったもの。分業しているからこその完成度を求めて大量生産ででき上がったものが、一番生活工芸的なもののような気がするんです。

皆川:
民芸にもそういう面があって、分業によって単純に合理化されるだけではなく、今も残っていることの意味がきっとありますよね。

猿山:
そうですね。だから、そのことを考えていた時に、ひとつひとつの目的が果たされた完成品も分業制なんだというのが、なるほどと思いました。


「すぐそばの工芸・考」トークイベントの記録

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井出幸亮 + 猿山修 + 森岡督行 + 皆川明

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井出幸亮 + 猿山修 + 森岡督行 + 皆川明

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