日用美品

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連続トーク「日用美品」

小林和人 + 小西亜希子 + 森岡督行  司会:菅野康晴

菅野:

連続トークの2回目をはじめたいと思います。小林和人さん、森岡督行さん、それから森岡さんの展示スペースで今回、カイ・フランクの本の著者として参加していただいている小西亜希子さんです。

小林:

今回の六九クラフトストリートの「日用美品」というテーマは、皆川明さんが企画会議の時に提案されたんですが、それを聞いたときに僕が連想したのが「反復の美」「入れ子の心地良さ」、そして「ブリコラージュ的な思考」です。

その3つをキーワードにして選んだひとつめが「竹内紙器」という紙箱などの製造会社が作っているホチキス留めの「Stapled」という紙箱です。もうひとつが「iwaki」というメーカーの片口のボウルです。これはサイズが4つあって、入れ子になります。全部を入れ子にした状態で上から見ると、波紋のような美しさを感じられます。

最後が「ブリコラージュ的な思考」を連想するものとして、増満兼太郎さんという作り手による皮のボウルです。素材は、「床革」と呼ばれる牛の皮の薄く削いだ部分ですが、通常は捨てられたり、使われたとしてもメインの素材とはならないものです。それを靴作りに使われるタックスと呼ばれる釘で留めてあります。

菅野:

「日用美品」というテーマが決まったのが1月。そのテーマに沿って出展者が3点を選び、それぞれについて短い文章を書いています。

森岡:

私は、普段は銀座で「1冊の本を売る書店」というコンセプトで、本から派生する展覧会を開催しながら本屋をしております森岡督行(よしゆき)と申します。よろしくお願いします。今日はちょっと風邪気味で、薬を2倍量飲んだところ、ぼーっとしてきています。単語とか出てこない不安もあるんですが、お許しを願いたいです。

「日用美品」というテーマをいただいて私が思いついたのは、以前、菅野さんが話してくださったことでした。たとえばコーヒーを飲むにしても生活工芸の品を使うと、味は同じかもしれないが、そこに流れる時間がちょっとちがってくるだろう。人間の生活、人間の一生は道具を使うことの連続だから、生活工芸を使うことによって人間の生きる時間の質が変わってくるだろう。そんなことを菅野さんがおっしゃって、私は「日用美品」とは、そういうものだろうと思いました。でも、これだと菅野さんの考え方そのままなので、自分なりの観点も入れたいと思いました。

そこで、思い入れとか、買った時の作家さんの顔が落とし込まれるもの、それがより強く感じられるものを選びたいと思いました。なので、今回の「日用美品」は背後にある物語とか、思いが落とし込まれているものを選びました。

小西:

はじめまして、小西亜希子と申します。カイ・フランクというデザイナーの一生を辿る本を書きました。カイ・フランクは「フィンランドの良心」とも呼ばれる方です。今回、この「日用美品」というテーマに、この本を選んでいただきましたことを、とてもうれしく思っています。

22年前、この本の表紙にある「カルティオ」というグラスを、とあるインテリアショップで見かけたことがインテリアの仕事を志すきっかけになりました。その後、私はインテリアの世界で企画やプロモーション、販売促進や広報、いろんなことをやってきました。その間、仕事においても生活においても、常にカイ・フランクが私のそばにありました。今日は「日用美品」というテーマを通じて、カイ・フランクのデザインをいろいろな視点から探っていけたらと思っています。

菅野:

ありがとうございました。1部でも話ししましたが、「日用美品」は美しい日用品、あるいは日用品の美という意味の造語です。森岡さんは、日用品と日用美品の差はどこにあるとお考えですか。

森岡:

なにか思い入れがある、物語性が付随しやすい、という点が大きいと思います。生活工芸や民芸も、おそらく美しいものだと思いますが、あえて「日用美品」と言うのであれば、物語性や思い入れを言語化して付随させることがポイントかなと思います。

菅野:

自分と自分のものとの関係ですか?

森岡:

それだけに限らないと思います。たとえば、ある工芸作家に「子どもが、この器が好きだからご飯を食べるようになった」という手紙をもらったエピソードを聞いたことがあります。そういうお話も、すごく美しいと思います。

菅野:

1部でも「日用美品」における美とは何かという話になり、竹俣さんは、使う人の所作や姿まで美しくするもの、小林さんは、使う人が常に新しさを感じるもの、三谷さんは、シンプルで使っても見ていても飽きないもの、ということでした。今の森岡さんのお話も含め、どなたも、ものの形の美をいっていないのがおもしろいですね。

小西さんはまず、カイ・フランクという人の説明からお願いします。

小西:

はい。カイ・フランクは1911年にフィンランドのヴィープリというところで生まれました。のどかな田園風景の広がる、自然豊かな地方都市です。第二次世界大戦後、1945年にロシア領になってしまいましたが、当時はヘルシンキに継ぐ第二の都市といわれるくらい人口の多いところでした。

彼のおじいさまはアラビア製陶所のデザインをやっていて、建築家でもあった。それから、お母さまは陶器の絵つけが趣味だった。ですからカイは、幼い時からフィンランドの自然で思いっきり身体を動かしたり、おじいさまやお母さまの仕事ぶりを間近で見て、感受性豊かに育ったのだと思います。

カイは建築家を志したものの数学が苦手だったようで、美術学校に進んで家具やテキスタイル、グラフィックなど、あらゆることを学びます。彼が兵役から帰ってきた後、アラビア製陶所のディレクターとして迎えられますが、彼のデザインには戦争が重要な影響を与えています。フィンランドは敗戦国として日本と同じような状況にあって、デザインを産業に結びつけて国を復興させなければいけなかった。カイはその使命感をもってデザインにあたっていました。これが何より彼のデザインの根幹になる部分だと思っています。

森岡:

フィンランドの戦後復興は、デザインや工芸で行われたのですか?

小西:

国を挙げて、ということではなかったらしいですが、当時、アラビア製陶所はフィンランドで1、2位を争う製陶所でした。そこに大きな資本力をもつバルツェラという会社が入り、その資本力をもって何かを生み出せるベースがあったといえます。

その頃からフィンランドのデザイナーたちは海外の展示会、たとえばミラノのトリエンナーレやパリの国際見本市に足を運ぶようになり、アメリカ、ヨーロッパ、隣国のスウェーデンなどでデザインの台頭を目の当たりにして、非常に影響を受けたようです。それを凌駕するものをフィンランドから生み出そうという動きがあったのだと思います。

森岡:

もってきていただいたものがあるんですが、非常に貴重なものだとお聞きました。

小西:

こちらは「クレムリンベル」というものですが、1957年にカイ・フランクがフィンランドのデザイナーとしてミラノのトリエンナーレに出品して、グランプリを受賞した製品です。

森岡:

モスクワの「クレムリン」かと思うんですけど。用途は?

小西:

お酒用に作られたもので、上にお酒を、下に水を入れます。1957年のミラノ・トリエンナーレはフィンランドデザインが各賞を席巻して、その台頭を世界に知らしめた年でもあります。そのなかでカイ・フランクは一番の賞を取ったので、ここからスター街道を走り、デザインをたくさん発信するようになりました。

森岡:

これは装飾的ですが、カイ・フランクというと用途に沿ったシックなデザインというイメージがあります。

小西:

そうですね。カイ・フランクといえば、やっぱり「カルティオ」や「ティーマ」を思い浮かべる方が多いと思います。

「カルティオ」は円錐という意味ですが、カイがつけた名前ではありません。彼が亡くなった後、1993年に「イッタラ」によって新たに名づけられたものです。ただ、カイのデザインをしっかり生かしているので、現在「カルティオ」という名前で作られている製品も、カイ・フランクデザインとなっています。

カイが世間に認知されたのが「ティーマ」です。正式には、「ティーマ」の原型となる「キルタ」というシリーズがあって、「ティーマ」は時代の変化に合わせて電子レンジで使えたり、コスト面を改良した新しいバージョンです。カイは、リモデルの際にはオブザーバー的な立場であって、開発には加わっていません。展示ブースに「キルタ」の製品もあるので、「ティーマ」と見比べていただきたいです。

小林:

2006年に目黒の庭園美術館で行われたアラビア製陶所を中心とした展覧会に足を運びました(✳︎2006年4月22日〜6月18日、「北欧のスタイリッシュ・デザイン—フィンランドのアラビア窯」展が開催された)。そこで「ティーマ」や「キルタ」の源流みたいな製品が、別のデザイナーの名前であったような記憶があります。

小西:

たとえばガラスだとグーベルニューマンという作家など、カイが影響を受けたといわれるデザイナーは何人かいますが、オフィシャルにはそういった記述や話は出てきません。

カイはものすごく博学で、学ぶことが好きで、世界各国の歴史や文化、日本のデザインや文化に対しても興味をもっていたそうです。ですから究極にシンプルで日常使いできるものを探求していくうえで、小林さんが見られた作品からも、何らかのインスピレーションを得たのかもしれませんね。

小林:

今でこそ“ど”シンプルな器の代表に見なされていて、人畜無害と評する方もいらっしゃるようですが、でも確か、この「キルタ」が出た当初のスローガンが非常に過激でしたよね。

小西:

「テーブルウェアを粉砕せよ」というブロパガンダ的なものですね。

菅野:

どういう意味ですか?

小西:

戦前は、食器というと装飾的で華美なものが主流でした。敗戦後は、多くの人が狭小住宅に住まなければいけなくなり、基本的な生活をしていくだけでも厳しい現状でした。そんな現状に合わせて、万人が日常で使えるものを作らなければならない。そもそも装飾的で華美なものは物理的に製作が不可能でした。一方でモダンデザインの台頭があり、いろんな要素が相まって、先のようなスローガンにつながったのだと思います。

菅野:

先日、「ひとり問屋」の日野明子さんからお借りした資料のなかに、日本の戦後のプロダクトについて語る座談会記事がありました。戦争で減った人口がこれからどんどん増えていく。今までどおり器その他の工芸品を手仕事で作っていたら数が間に合わないし、コストも上がる。だからどんどん工業化して量産し、安価で普及させよう、と語りあっていた。 今のカイ・フランクの話にも通じる善意、使命感が伝わってくる記事でした。

森岡:

確か『工芸ニュース』に書いてあったと思うんですけど、私も同じように感じました。

小林さんの著書の『あたらしい日用品』のなかに、カイ・フランクが入っていたと思うんですが、それはどういう観点から選ばれたんですか?

小林:

「カルティオ」を取り上げましたね。実は今回の「日用美品」というテーマを聞いた時に、自分の書いた『あたらしい日用品』と重なりました。本のタイトルでは、ひらがなで「あたらしい」と表記しましたが、それは新しいという言葉に広がりと奥行きをもたせたかったからです。自分にとって「あたらしい日用品」とは、使うたびに価値を更新できるもの。まさに「カルティオ」はその代表のひとつではないかと思いました。

菅野:

小林さんはカイ・フランクのグラスのどこに「常なる新しさ」を感じているのでしょう?

小林:

世界を代表する著明なデザイナーがデザインしているけれど、ぱっと見、非常にアノニマスな雰囲気を湛えている。匿名性を守り続けている。あと、たとえばこれが真っ白だったら、蕎麦猪口みたいですよね。地域性を感じさせない、普遍的な、非常にユニバーサルな魅力も感じます。あとは、これの小さいサイズは子ども用にちょうど良いんです。

菅野:

サイズは複数あるのですね。

小西:

タンブラーとハイボールとコーディアルがあります。以前は、さらに小さいサイズもありました。

森岡:

無名性と有名性について、この著書のなかで展開されているんですが、その観点もおもしろいですね。

小西:

そうですね。カイ・フランクは、1960年頃から匿名を推奨するようになりました。「キルタ」を発表したのが1953年で、グランプリをとったのが57年ですから、60年にはすでにフィンランドデザインを牽引する存在になっていたはずです。アラビアや、在籍していたヌータヤルヴィ(✳︎1793年創業、フィンランド最古のガラス工場)でもアートディレクターや芸術監督として、すべてのブランディングに関わっていたので、非常に力をもっていました。そのカイが無名性を推奨していくんです。

菅野:

具体的には?

小西:

新しく発表する製品に、自分も含めてデザイナーの名前を出しませんでした。

菅野:

その真意は?

小西:

執筆するにあたってさまざまな文献を調べたり、カイが一緒に仕事をしていたヌータヤルヴィ社の広報の方や、カイとずっと一緒にグラフィックデザインをやっていたパートナーの方、いろんな人にお話を聞きして、その結果を3つに絞りました。

ひとつめ。デザイナーがデザインしたものはプロダクトになっていく過程で、コストや技術や強度、あらゆる面で少しずつ変化していく。その仕上がりがデザイナーの満足のいくものにならなかった場合、デザイナーの名前でプロモーションをかけることで、その名への冒涜になったりする。だから、デザイナーの名誉を重んじるべきだ。

ふたつめ。ものが人に選ばれる時にデザイナー名は必要ない。ただ気に入って手に取ってもらい、それが人の暮らしのなかでいかに長く使い続けられるか。カイは、これが最も重要だと強く思っていたからです。企業はいろいろな枕詞をつけて販売促進しようとするけれど、デザイナー名でものの良し悪しを判断することを消費者に押しつけるようなことは、もうやめよう。

3つめ。デザインをする人、図面を書く人、型を起こす人、機械を動かす人、最後に酸洗いをしてガラスを磨く人。量産される製品は、みんなの手によって完成されていくのだから、デザイナーではなくチーム全体のものだ。だから個人名はいらない、企業名だけで十分ではないか。

以上、3つの理由から匿名性を推奨したことがわかりました。

ただ、その匿名性については、ヌータヤルヴィでもアラビアでも、意見が真っ二つに分かれるくらい大変な出来事だったようです。カイはすでにスターダムにのし上がっていたので、今さら自分の作品に名前がつかなくても問題はないでしょうが、まだメジャーになってないほかのデザイナーさんたちは、自分の名前を前面に打ち出したい。そう思うのも当然といえば当然です。

菅野:

カイ・フランクはそうした自身の考えを述べた文章も残しているのですか?

小西:

そういった明快な見解というのは記述では残っていません。ただ、現に使い続けられているという事実や、今のフィンランドでカイ・フランクがどう認識されているかはわかります。フィンランドの若い方で、カイ・フランクがデザインしたイッタラの食器を新しく買うという方は、多くはありません。でも、もちろんみんながカイ・フランクを知っていて、実家や祖父母の家など、どこかの家の食器棚には必ず置いてある。それくらい根づいているものです。それって、すごいことだなと私は感じています。

菅野:

少量生産ではそうならないですよね。

小西:

確かに。たくさん生産されて消費されている、ということですから。「キルタ」は20年間で、世界で2500万枚を売ったというアラビア史上最大のヒット商品です。その記録はまだ破られていないそうです。

菅野:

小西さんはこのグラスとひと目惚れのように出会い、それからいろいろ調べて、1冊の本を書きました。改めて今、このグラスに惹かれた理由はなんだったと思いますか?

小西:

カイの人柄や仕事ぶり、ものとの向き合い方、そういったことを知った時に、彼の根底にあるフィーリングというか感性的なものが、どこか自分と触れるところがあるからなのかなと思います。

小林:

なぜカルティオのグラスを『あたらしい日用品』で取り上げたのか、という森岡さんからの質問に対する答えのもうひとつとして、普遍性を感じながら、同時にものすごく独特なグラスだと感じるんです。普遍性と独自性は相反する概念だと思うんですが、この「カルティオ」は、その普遍性と独自性が奇跡的に共存している、かなり稀な道具ではないかと思います。だからこそ多くの人が惹きつけられる。小西さんがほかのグラスではなく、この「カルティオ」を見て人生が変わったのは、やっぱり強い独自性に惹きつけられたからではないかなと思います。

菅野:

「六九ストリート」に並んでいるものは手工芸品がほとんどですが、それらとカイ・フランクの器のような工業製品の差を小西さんはどうお考えですか。

小西:

根底にあるものは、手工芸も量産されたものも同じではないかと思います。量産品であってもプロトタイプの段階では、何回も手で練って、型にはめて、素焼きをして、自分の思いに近づけていく作業を得て、できあがります。それが個人で活動される作家さんたちの作品と通ずる部分かなと感じます。

私は作家さんの木の器や陶磁器も大好きで、家ではいろいろなものを使っています。そうした作家さんの器の力強さや佇まいを、カイ・フランクの「カルティオ」は決してつぶさず、共存します。そういうところに心地の良い日用品としての魅力があると感じます。

小林:

工業製品と手仕事のものと、ひとつずつが発する熱量には差があるものだと思いますが、工業製品はおびただしい数の人の手元に届きます。使う人が日々生活のなかで感じる気もちが蓄積されると、ものから受ける感情の総量は一緒になるのかなと思います。要するに「一個の熱量×作る数」という総量は、そんなに変わらないのかな、と。

森岡:

日本ほど工芸作家が食べられる国はないと聞いたことがあります。一方で、産地は疲弊している、跡継ぎがいない、道具がない、という話も聞きます。以前、菅野さんがお話してくださったことがありましたが、もともとあった手仕事に代わって大量生産、大量消費の工業製品が生まれて、それへのアンチテーゼとして生活工芸が生まれてきた流れがある。そのなかで、ある生活工芸の作家が恵まれても、大量生産より以前から手仕事でがんばっていた方が疲弊している、と。それが驚きでもありました。

菅野:

今日の話を聞いていると、産地的手仕事の日用品が工業製品に取って代わられることは、歴史的必然だったと思います。その方がおそらく社会的にも正しい。しかしそこに満ち足りなさを覚える時代、人々が現れて、それを満たしたのが三谷さんをはじめとする生活工芸の作家たちだったのではないでしょうか。

森岡:

有名性と無名性の話ですが、私は名前があっていいと思っています。

菅野:

そうですね。

森岡:

固有名を知ると、作家の言っていることが思い出されたり。自分はその方が豊かだと思います。

小林:

自分にとっては、そのものとどうやって出会ったかということも大事です。

森岡:

本当にそうです。今回の展示で、みなさんが書かれたキャプションがついたものを見ると、奥行きが広がって、そういうのが自分は美しいなと思います。

菅野:

会場の方、ご質問があれば。はい、皆川さん。

皆川(客席から):

産地の活気を戻す術(すべ)がないというのは、日野さんのご意見でしたっけ。

菅野:

日野さんのお話を私なりに理解すると、産地も結局、人だということです。これまでの産地を支えてきたのは往々にして10代から仕事に就き、分業のなかの一工程に習熟した職人さんたち。そうした人々が各工程で歯車のように働くことで産地的工芸は質を保ち、量も生み出してきた。しかしこれから、むろん条件もよくないなかで、そうした仕事に就きたいと思う若者は余りいないんじゃないか、と。

皆川:

ファッションでいうと、そういう産地は売り手から作り手までの間にヒエラルキーがあるんです。そのヒエラルキーをプロセスから見直して、もっとフラットにしないといけません。たとえば、デザイナーも、作り手も、売り手も、全員が同じように、ひとつの利益をきちんと分配するというマインドになれば、たぶん続くんですよ。ヒエラルキーをそのままにしたら続くわけがないんです。

デザイナーはどのようなプロダクトを作るかというプロセスを下職さんに発信して、それを職人さんが作る。そうすると、同じプロセスでも価値観を変わり、ちがうものができあがります。そして売り手もきちんとマージンを取る。今の小売業は作ったものに対して、作り手よりも相当な利益を得ることが可能です。そうやってプロセスを直しさえすれば、たぶん大丈夫だと思う。実際にファッションでは大丈夫になっているんです。

それから、作家はうまくいっているけれど、産地は疲弊しているというお話もありました。それは多様性ゆえと思うんです。小さなプロダクトあるいは少量生産しかしない作家の方は、多様性のなかでは十分なアウトプットだと思うんですね。ところが産地となると、ある程度の同一商品がたくさん生産されるから、それは多様性に対しては多すぎる状態で、バランスが取れていないのかもしれない。

ファッションにもそういうところがあります。多様性ゆえに大量生産の機械は稼働率が悪くてうまくいかない。作家さんは作れる量が限られているため、需要と供給のバランスが取れるから成立し得る、ということはあるかもしれないですね。

菅野:

産地であっても少量生産でやっていけると?

皆川:

そうできると思います。

菅野:

価格を上げて?

皆川:

たとえば、ひとつの工場で同一で100作っていたのを、10種類を10分の1ずつ作る方法に変えていけば、生きる道があると思います。ただ、作っている当人たちには見えないことでもあるので、そこにデザイナーが入って、どのようにやるか、きちんとプランを立てれば戻っていくと思うし、そうやって戻していくことが、これからすごく重要だと思います。

菅野:

中川政七商店の本を読むと、産地的工芸に経営ノウハウを導入することで成功させていますね。

皆川:

利益分配がしっかりできていればいいんですが、ノウハウを伝えた側が多く取り過ぎると、うまくいかないと思います。

トークの内容についてですが、フィンランドの人口はとても少ないけれど、それでもこうやって産業として成立させてきたカイ・フランクのアイディアは、すごく勉強になりました。

質問者(客席から):

僕は洋服を作っているので、たまに産地へ行くんですが、「栃木レザー」というタンナーへ去年行ったら、若い人が多かったです。労働組合の代表も若い人でした。社長と組合長と冗談を言い合いながら説明してくれました。ツアーを組んでくれた方は、若い人の方が真面目で丁寧に仕事やってくれるから、栃木レザーでは年配者より若い人を採用している、と言っていました。

一般の方にどれくらい認知されているかわからないですが、ファッションや革をやっている人からすれば、「栃木レザー」はブランド化しているほど有名で。そのやり方をほかの産地でもやって、若い人たちを呼び込むことはできるんじゃないかと思いました。

菅野:

気もちだけでは続かない。給料などの条件にも満足しているのでしょうか?

質問者:

生地を仕入れて、カットして、タンニンに浸けて、みたいな流れ作業で働いている若い人たち、みんなが生き生きというわけではなかったですけど、そのなかでも何人かはすごいやりがいをもってやっていました。

職人さんの給料がどれくらいなのかはわからないですが、栃木レザーというブランドとして、いろんなところに商品を卸しているので、おそらく付加価値で、しっかりお金を取れているのではないでしょうか。若い人たちをそれなりに生活させられるぐらいの給料を払えているんじゃないかとは思います。

栃木レザーは一回破綻した経緯もあるそうですが、今はちゃんと立て直していて、そういうところを見ると、まだまだ産地の可能性はあるのではと思います。

小林:

ハタノワタルさんという紙の作り手がいて。作家は食べられて、産地は疲弊しているという話について、そういえばこの話が象徴的だなと思い出しまして、ちょっと言わなきゃと思って。一昨年、資生堂ギャラリーで森岡さんが関わった……

森岡:

「そばにいる工芸」ですね。三谷さんの著書と名前が似ているんですけど、このタイトルの方が先ですので。これは言っておかないと。

会場:

(笑)

森岡:

そもそも菅野さんが編集された『生活工芸とその時代』の見開きに書いてある言葉なので、意図して名前が一緒になったようなところがあります。すみません。

小林:

三谷さんの著書で対談もされているハタノさんの、京都の綾部にあるご自宅兼工房と、紙漉きをしている黒谷和紙の組合の工房へ、森岡さんの取材に便乗して見学に行きました。その時、ハタノさんから、なぜ職人から作家になったかという経緯を聞きました。

ハタノさんはもともと美大で絵を描いていて、絵を描く支持体(✳︎紙やキャンバスなど、絵具をのせる素材のこと)を探すうちに和紙に出会い、なかでも一番強度がある和紙ということで黒谷和紙に行きついたそうです。最初は職人として漉いた紙を組合に納めて、組合からお金をもらっていたけど、毎月どんなにがんばっても、これしかできないという上限が決まっているそうです。

ひとりで生活していた間は食べられていたけれど、結婚して、お子さんが生まれることになって、生計を立てられない、となった。それで、和紙を使った内装の仕事をはじめたり、作家として自分の作品を売るという道に転じた、という話を聞きました。技術が優れた作り手は生活ができて、産地が疲弊しているという話ですが、そのハタノさんの職人から作家へ転向した背景を知ると、いろいろ考えさせられることがあるなと思いました。