工芸のウチ.ソト

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連続トーク「ものに思いを込めるということ」

皆川明 + 森岡督行 + 熊谷幸治   司会:菅野康晴

○ 「工芸のウチ・ソト」の解釈

菅野:
六九クラフトストリートに合わせて、皆川さんの「ミリメートル」という場所が今日からはじまりました。ここで行う「工芸のウチ・ソト」展ですが、事前に三谷さんと皆川さんから「工芸のウチ・ソト」というテーマで作品なり品物を出品して、それぞれにキャプションをつけてください、というお題が出されました。
「工芸のウチ・ソト」という言葉自体は、打ち合わせの際に皆川さんから出た言葉だったと思うのですが、その意図をお話ください。

皆川:
六九クラフトストリートは今年で4年目になります。今年はみんなで何かをしましょうと、居酒屋に集まってテーマやタイトルを考えたときに、あのマークが思い浮かびました。

菅野:
その場で、ささっと描かれたのでしたね。

皆川:
そうですね。僕や三谷さんは作る側にいます。菅野さんは、編集という立場でものを見て、言葉にのせて人に伝えます。作る人とそれを見る人は、内側と外側にいるようだけど、実は1本の同じ動線のうえにいて、それがクルクル回っているんじゃないか。そんなイメージから「ウチ・ソト」という言葉にしました。

菅野:
ありがとうございました。では、森岡さん、今回出品されているのは何でしょう。

森岡:
私は「工芸のウチ」と聞いたときに、まず仏教の経典を思い浮かべたんです。というのも、柳宗悦の『工藝の美』というエッセイに「工芸は浄土からの贈り物である」と書いてあるんですよ。よくよく読んでいくと、仏教の言葉がどんどん展開されて、きっと柳にとっては、工芸の内側に仏教の教えというか、教典があるんだろうと思いました。それで一冊は『工藝の道』という本にしました。
もう一冊は、柳が最晩年に集大成として出版した『美の法門』です。工芸とのつきあいのなかで思考を深めて、それを「ソト」に出した、ということで選びました。

皆川:
森岡さんのその解釈は僕にはとても新鮮でしたし、僕の最初の思いつきより深いと思います。熊谷さんは「工芸のウチ・ソト」にどんな解釈をされましたか。

熊谷:
(*土器作家、熊谷幸治さんのプロフィールは、小林和人さんの「展覧会の記録」を参照)
僕は焼きものから入って土器を作るようになったので、工芸の立場でやっているんですが、器のお店で(作品展を)やると、アートだと思われるんです。 でも現代アートの場に行くと、工芸家といわれるんです。その線引きはできていないんですが、土器は何なんだろうなとは、絶えず考えています。

皆川:
熊谷さんの土器を作るプロセスを見れば、例えば女木島では、その場で掘った土でどんどん作って、それを展示していった。そのやり方は完全にアートの領域ですよね。それにしてもすごい数作りましたよね。

熊谷:
はい。野焼きという方法で、普段は山梨で、そこの土を使うんですが、そのやり方だとどこでもできるんです。器だから工芸だとも言いきれなくて、プロセスを見たらアートともいえる。

皆川:
そこが「工芸ってなんだ」というテーマにつながっていきます。そもそも工芸とアートは分けるべきなのかどうか。森岡さんは熊谷さんのお話で、何か感想をもたれましたか。

森岡:
総じて民芸とはなにか、工芸とはなにか、という問いかけだったと思うのですが、柳宗理の「新幹線は民芸であるか」という問いかけがあったことを思い出しました。
何が民芸で、何がアートで、器とは何だ、とは、なかなか一概には言えなくて、場所や時代によって変容していくものだとは思います。

皆川:
新幹線は柳さんにとって、どちらだったんですか。

森岡:
柳さん自身も明言していません。ただ、菅野さんと小林さんとそのことについて話すなかで、新幹線には名前がついていることに意味があるだろうということにはなりました。しかも「ひかり」とか「はやぶさ」とか、大和言葉があてられている。ちなみに「のぞみ」は当初「きぼう」だったらしいのですが、ほかの新幹線にあわせて大和言葉が正しいと阿川佐和子さんが提唱されたそうです。
ものに名前をつけるのは気持ちを入れる行為であって、何かしらの線引きはできるように思いました。

皆川:
菅野さんは、どう思われたんですか。

菅野:
民芸館の存在理由を考えると、新幹線は民芸といってはいけないだろうと思っています。私は今のところ、手で作られた道具を工芸だと考えています。
皆川さんがご自身のテキスタイルに対するコメントで、ミナのテキスタイルは、どういうものを作るかという思考と、図案を手で描くこと。人間の身体をもってやる作業はそこだけで、あとは全部機械から生まれたものだ、それを工芸と言っていいのかどうか、という問いを投げかけていらっしゃいます。
小林さんも、一柳京子さんのピッチャーについて同じようなことを言っています。電動ロクロで、電気窯で、基本的に電気で作っているものを手仕事といえるのかどうか。

皆川:
民芸という枠ができたことで、民芸か、そうでないかという線引きがはじまった。「生活工芸」という言葉が生まれて、それはなんだろうと、ここしばらく考えていく時間がとても大事で、良し悪しではなく、多面的な意見が重要だと僕は思います。
先ほどの熊谷さんの、アートの領域なのか、工芸の領域なのか、ということですが、評論家やギャラリストはそこを区別するけど、選ぶ人にその区別はない。趣味嗜好というか、自分の好き嫌いにピントを合わせていく。それはとても豊かなことだと思います。

熊谷:
この前、「プラグマタ」というギリシャ人のペトロスさんがやっているギャラリーで展示をさせてもらいました。東京駅の近くにあるので外国の方が多いんですが、ペトロスさんは、彼らは日本のお客さんと買い方がちがうと言うんです。
土器は器として使いづらいイメージなので、僕は工芸的に使えるものを作りたいという目的でやっていますし、普段、接する日本の方も、器は使うものとして、自分のために買われていきます。
でも外国の方は、土器をインテリアとして見ている。インテリアは、自分の家に人を招いて一緒に愛でるためのもので、アートもインテリアなんですって。文化のちがいを感じました。こんなに一生懸命使えるように作ってきたのに「インテリアです」(笑)。

皆川:
インテリアとして好きだという感情は、器として見る人の愛着と、重さは変わらないですよね。

熊谷:
そうなんです。だから、あんまり難しく、こうでなくてはいけない、とは僕のなかではないです。そもそも僕のなかで曖昧なままやってきて、土器が何か定まらなかったのが、ますますどうでもよくなりました。

○ 縄文土器の土はブレンドされていた!?

森岡:
最近、松本でも野焼きをしているそうで。

熊谷:
三谷さんのところでいい土が採れまして。

森岡:
土器作家は、どういう土を「いい土」と思っているのか、お聞きしたいです。

熊谷:
成形がしづらいとか、焼くと崩れるとか、向かない土があるんです。三谷さんとこのは粘りが強かった。だから形が作りやすいという意味で「いい土」。焼いたら割と普通ですけどね(笑)

皆川:
昨日見せてもらったら、すごく素敵でしたよ。もう木で作らなくなるかも(笑)。毎日作っているんですよね、三谷さん。

三谷(客席から):
一日一器です。

会場:
(笑)

森岡:
「いい土がありそう」みたいな、野生の勘が働くことはあるんですか。

熊谷:
あります。僕は土のことしか考えていないんで、車で走っていれば山を見てしまう。日本は木が生えているのでわかりづらいんですが、崖崩れがあった場所は土が見られます。

菅野:
縄文土器や弥生土器の土は、選ばれた土なんですか、それともそのへんにある、あり合わせの土で作っているんですか?

熊谷:
あれはですね、面白いんですよ、調合している。間違いない。あんな土は出てこない! 日本中で同じような土なんです。しかも数千年規模でほとんど変わっていない。粘りが強くて形が作りやすい土は火に弱くて、火に強いのは形が作りづらい。だから当時の人たちは、何種類かの土を、いい塩梅で混ぜているんですよ。

森岡:
それは一般的に知られていることなんですか?

熊谷:
僕がそう思っているんです。

会場:
(笑)

熊谷:
日本の焼き物は、単味(たんみ)が大事とされているんです。そこの土地の土だけを使う。産地を守らないといけないので、ブランドとしてそこの土を強調していく。だから混ぜものはいけない、みたいな。でも、縄文人は土をブレンドしていた。土を混ぜあわせることさえできれば、どこでも作ることができる。あと、いや……、長くなるので、やめておきます。

皆川:
それを本で例えることはできますか。

森岡:
え!(絶句)

皆川:
例えば、外側の面構えはすごく美しいから、この本は絶対に中身もいいとか、装丁として佇まいに出てきたりするんですか。

森岡:
んーっと……、熊谷さんの話を「あー、面白い」なんて聞いていたら、いきなり難しい曲面に立たされました。

会場:
(笑)

森岡:
でも、10年くらい本屋をしているので、こういうのは必ず打ち返してやりたいと思うんです……えーっと、いい本の条件、みたいなことになると思うんですが、それはちょっと考えつつ、ともあれ、日本では古今東西の本がこれだけ出版されている、どの本がすごいかを言う前に、そういう状況がすでに素晴らしいと思っています。本屋がなくなっているとか、本の文化が廃れつつあるとか言われているんだけど、それでも日本には一万軒以上の本屋がある。諸外国と比較したら、これほど豊かな出版文化が形成されている例はほかにない。その意味においては、むしろ現状を肯定していいのではと、私は思います。

○ 人生の質を変えるものづくり

皆川:
菅野さんの出品された本は、羊の皮ですか、豚ですか。その頃の書物は全部手で作っているので、工芸といえるわけですね。それが今は工業的に作られている。本というもの自体の成り立ちもずいぶん変わりましたね。

森岡:
変わりましたねー、変わりました。(唐突に)わかりました!
先ほど、本の文化が豊かだと言ったんですが、残念な部分もあると思うんですよ。日本の流通の仕組みでは、とりあえず本を作って「取次」という会社に入れます。すると、その時点で売り上げがどーんと立つ。でも、しばらくすると、その本が書店から返ってきてマイナスになってしまう。それを埋め合わせるために、また作らなければいけない。そういう仕組みで成り立っている部分もあります。
でも時々、そういう構造から脱却して本を作ろうという情熱をもった出版人、編集者、著者がいらっしゃる。そういう本は本屋に並んでいても伝わってくるんです。きっと波動のようなものが感じられるから。どれだけ安価なつくりでも、それはいい本だろうと思います。

皆川:
今のお話を聞くと、熊谷さんも土にすごく敏感に、感覚的に反応する。森岡さんも本について同じようなことをおっしゃる。「ウチ・ソト」でいえば、熊谷さんは作る人、森岡さんは本を外から見て評価する人。でも発する言葉はすごく近い。

熊谷:
森岡さんが波動と言いましたが、オカルトっぽいけど、なんかあるじゃないですか。

森岡:
なんか、ありますよね。

熊谷:
その実感はあるので、やり方はわからないけど、僕もそういうのが出るものを作りたい。ものづくりにおいて、ものの良し悪しの大事なところだと思っています。それは作り手も感じているし、使い手もきっと感じているはずです。

皆川:
菅野さんの『工芸青花』はものの背景を伝える、最近ではそれを極めた本だと思うんです。どういう経緯で作ったんでしたっけ。

菅野:
新潮社で、最初は『芸術新潮』という雑誌をやって、そのあと単行本の部署に移り、美術工芸関係の本を作り続けていたんですが、さきほど森岡さんがお話されたような状況が出版界にありました。かつて世の中に、特に骨董とか古美術とか工芸関係の本として出ていた、布張りで、ハードカバーで、ゆっくりと読める本が、あまり作れない状況になっていました。
たとえば一杯のコーヒーを飲むときに、好きな器で飲む時と、どうでもいい器で飲む時と、味は同じでも、飲んでいるあいだの時間の質は変わると思うんです。時間の質の集積が人生ですよね。せっかく美術の本を作っているのであれば、それを手にした人の時間の質を、それまでと変えたい、変わってほしいという気持ちがあります。かつて自分がいいなと思って無理して買っていたような本を作りたくなったんです。
工芸作家の仕事に触れる機会が多かったのですが、世の中に服も器もあふれている時代に、彼らが何を目指して作っているのか。それを考えたときに、受け取った人の人生の質が多少でも変わることを目指して作っているのではないかと思って、同じようなことを本でもできたら、というところからはじまりました。

皆川:
物質的な所有の満足というよりも、それを使っているときの感情としての質をおっしゃっていると思う。思考から物質化したものが、使い手の思考に戻っていく。これが、ものの本来の意味というか、価値かと思う。機能は、それを促すためのツールかもしれない。結局、僕らは使っていて便利だというより、使っていてうれいしいという価値を大事にしている。思考と物質が順番にまわっていくような感じがしました。

菅野:
この絵のようにグルグルと。

皆川:
そうですね。

○ 思いを込めるということ

菅野:
会場のみなさん、なにかご質問などがあれば、どうぞ。

三谷:
熊谷さんが以前、土器を作ることによって救われたということを話していました。それは、陶芸全体に対する失望があったから。そのへんのことを、ちょっとしゃべってほしいです。

熊谷:
ものづくりには、お金が絡んできます。そうすると、ものの(質としての)強度が弱まる、と感じるんです。建築も好きだったんですけど、だんだん失望していって、焼きものも商売っけが強過ぎてだめで、ついにやることがなくなったときに、土器を見たんです。これはやってみたいと正直に思って、やっていくうちに、いやだなと思う気持ちがなくなった。
僕は、みなさんに作ってもらいたいんです。作ってもらうと、僕の「救われた感」がわかると思うんです。土器はそこらへんにある土で簡単に焼けるし、難しくもないので。いろいろありますが、土器に出会えてよかったです。

会場より:
熊谷さんの土器のワークショップに参加して、土の手ざわりに感動を覚えました。その手ざわりがなくなってきている分野が本ではないかと思う。デジタル化されることで、ページをめくる感覚とか、本を手に取る感触が失われつつある。肌ざわり、手ざわりについて感じていることがあれば、教えてください。

森岡:
本のデジタル化については、いい面と悪い面があると思います。いい面は、自分の求めている資料やテキストが容易に手に入る。特に日本は家屋のスペースが取れないという意味でも、(デジタル化は)どんどん進歩をしていくだろうし、それを否定するつもりはありません。
ただ、紙や本は、めくることによって豊かな時間を楽しめる。それから、神保町のような町は世界のどの都市にもなく、東京を文化都市と呼ぶ根拠にする人もいるくらい。そういうものがなくなるのは残念だと思います。

皆川:
布は、テクスチャとか、触感とか、重さとか、着ている間はずっと実感し続けるわけです。でも、思考の入っていないファッションが多い。どんなものでも物質に思考が入っていることが本来すごく大事だと思うんですけど、「これを今、多くの人が必要としている」という情報は入っているけど、作り手の思いが入っていないものがずいぶん増えている。そこからは何も汲み取れないので、思考以外のファンクションや、安価であるということに価値を見出している。自分の身につけているものから作り手の思考が感じられないのは残念であるし、そのあたりの感覚がマヒして、そもそも(ファッションに)思考があるものとは思えなくなるのが、一番残念です。そうならないようにしなければいけないと思っています。

会場より:
もともと土器を作っていた栗田宏一さんという方は、熊谷さんと同じように土が好きすぎて、土から形あるものを作り出すことから、土そのものを自分の作品として収集するようになった。あまりにも素材が好きだと、そういうところまでいってしまうのかなと、その方の話を聞いて思いました。熊谷さんは、いかがですか。

熊谷:
僕が土器をやっているのは、器だからです。家庭に入れたいんです。なので、土が好きすぎるのは同じで、それを多くの人に見てもらいたいという思いは同じなんですが、やり方がちがう。栗田さんのような、アートとしてみんなが見られるやり方もあると思うんですが、僕は家庭に入れるのが工芸の強みだと思っています。だから、その範疇で器を見てもらおうと、はっきり決めています。

菅野:
皆川さんもコメントで「工芸の価値は、生活のなかに置いてこそ」とお書きになっていますが、熊谷さんはなぜ、家庭のなかでご自分の作品を見てほしいんですか。

熊谷:
身近な距離感なんです。「こんなん、どう」というくらいの関係でありたい。親が子どものために作るとか、それくらいが思考を入れやすいと思う。僕はまったく顔の見えない誰かのために作ることができなくて、ギャラリーでやる場合は、オーナーのことを思いながら作ります。

菅野:
アートと工芸のちがいは、そこにもあるのかもしれませんね。大向こうをうならせるものではないもの。ありがとうございました。